中学生になっても、僕の吃音は相変わらずでした。
小学校からの友達は事情を知っているからまだいいんですが、新しく出会う同級生に知られるのが、とにかくイヤでした。
僕の地域では3〜4つの小学校から生徒が集まるタイプの中学で、まったく初めて会う人が一気に増えるんです。
「どう思われるんだろう」「どもったら笑われるかな」
そんな不安がずっと頭のどこかにありました。
■ 自己紹介の季節、いちばん緊張する場面
入学してすぐの自己紹介。
僕にとっては地獄みたいなイベントでした。
どもるのが嫌だから、短く、決め打ちで話せる台詞を用意して挑む。
――でも、今にして思えばそれが逆効果だったんですよね。
当時の僕は気づいていませんでしたが、
僕の吃音は 「リズムが崩れると出るタイプ」 だった気がします。
歌を歌うときはどもらない。
その感覚に近くて、長い文章のほうが“リズム”“節”が作りやすいから
かえってどもりにくい。
よくおじさんが「えー」とか「あー」とか話す前に入れるのも、話すリズムを取っているのではないでしょうか。話し始めるまえの助走ですね
逆に、短い言葉はリズムが作れない。
しかも「絶対に短く言い切らなきゃ!」と緊張するから、余計に詰まってしまう。最初の一言が出てこない。「は、は、はじめまして」となる。
当時の僕はそんなカラクリに気づくはずもなく、短く短く、そして緊張して失敗して…
そんな悪循環にハマっていました。
■ 好きな子ができても話せない
中学生といえば、恋愛も始まる年頃です。
僕にも好きな女の子ができました。
でも、まともに話せない。
話したら吃音だとバレて恥ずかしい。
だから、必要最低限の短い言葉だけ返す。
単語単語で、ぶっきらぼうな感じ。
本当はもっと話したいし、仲良くなりたいのに“どもりたくない気持ち” が邪魔していました。
吃音は、人との距離感にも影響を与えていたと思います。
■ サッカー部では吃音が出ないという謎現象
部活はサッカー部に入っていました。
運動が好きだったし、サッカーは特に好きでした。
そして、ここでちょっと不思議な発見がありました。
サッカー中はほとんどどもらないんです。
グラウンドで大声を張り上げて指示を出したり、仲間に声を掛けたりするときって、なぜかスラスラ言える。
これは今振り返ると、
- 大声 → リズムが自然にできる
- 身体を動かしている → 緊張が分散する
- “気持ちを乗せる声” になる → 喉が固まらない
こういう要素があったのかもしれません。
ちなみに45歳の今の僕は、家族から「声が小さい」とよく指摘されます。
当時も小さかったのかもしれませんね。
しかし“大きな声で体ごとしゃべる感じ”だと、吃音は出にくかった。
これは中学時代に得た、大きな発見でした。
■ 普段はどもる。だから周囲の反応もいろいろ。
当然ですが、普段の生活ではどもる頻度も多く、周囲の反応も千差万別でした。
- 馬鹿にしてからかってくる男子
- 完全にスルーする男子(大人な子)
- 女子は基本からかわない(でも笑う。まあそうだよね)
面白いのは、からかわない子は成績がいい子が多かった気がします。
まったく関係ないかもしれないけど、なんとなくそう思っていました(笑)
先生から指摘されたことも、親から何か言われたこともありません。
“吃音をどう扱えばいいか誰も分からなかった” という時代だったのでしょう。
■ 「からかい→追いかける→本気の取っ組み合い」という謎の遊び
男子の世界ではありがちなんですが、からかってくる側も、ちょっとした“遊び”のつもりだったりします。
学校帰り、複数人にからかわれて、僕が「懲らしめよう」と本気で走って追いかける。
そんな謎の遊びみたいな状態になることがありました。
僕が嫌だったのはもちろんなんですが、今思えば、あれは半分遊びの延長みたいでもありました。
ただ、ある日ついにブチッと切れて、ひとりを地面に転がし、馬乗りになって蹴って懲らしめました。
相手は「やりすぎだろ!」と言うけど、僕も「そっちがからかうからだろ!」と激しく言い返す。
すると、集合住宅の住人が出てきて「何事?」という雰囲気に。
その瞬間、「これはまずい」と咄嗟に判断して、相手を起こして肩を組み、“じゃれていただけ感” を全力で演出して、その場を離れました。
あのときの判断力は、今思い返してもちょっと笑えます。
■ 中学生の僕は、まだ“戦い方”が分かっていなかった
中学生の頃の僕は、吃音とどう向き合えばいいか分からないまま、ただ毎日をやり過ごしていました。
相談できる大人もいない。
同じ悩みを持つ仲間がいるわけでもない。
ネットで調べられる時代でもない。
だから僕はずっと、「どもらないように頑張る」という方向に進んでしまっていました。なかなかに大変でしたよ。
次回は、高校生編です。

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