高校は、正直に言うとそれほど偏差値の高い学校ではありませんでした。
入学して数か月もすると、同級生が喧嘩やなにかで停学になったり、そのまま退学したり。
少し荒れた学校だったと思います。
ただ、吃音という点で見ると、高校生活はだいぶ楽になりました。
入学当初こそ自己紹介はありましたが、小学校や中学校のように、授業中に音読させられたり、急に指されて答えを求められたり、そういう場面がほとんどなかったんです。
そのおかげで、「学校でどもるかもしれない」という不安は、この頃からかなり減ってきた気がします。
高校に入ってから、お笑い番組や芸人が好きになりました。
同じような趣味の友達もできて、好きな芸人の話、面白かった番組の話なんかをしているときは、あまりどもらずに喋れていたと思います。
それでも、不意に吃音が出ることはあります。
でもこの頃から、それを隠すのではなく、自分でネタにして笑いを取りにいく、そんなこともできるようになっていました。
笑いって、基本的には「何かを落とす」構造があると思うんです。
誰かを馬鹿にして笑う、という形もありますよね。
僕の場合は、自分を落として笑いを取っていました。
不幸をそのまま不幸として扱うと、どうしても暗くなる。
だから少しでも明るくしたかったのかもしれません。
それ以来、吃音に限らず、自分の失敗や恥ずかしい出来事は「ネタになる」と考えるようになりました。
自虐ネタは、少なくとも他人を傷つけない。
そう思っていました。
ちなみに、そのお笑い好きの友達とは、45歳になった今でも付き合いがあります。
たまに一緒にお酒を飲んだりしています。
高校卒業後は、専門学校に進みました。
大学へ行く学力も気もなかったけれど、「何かしら学校には行きたい」という気持ちはあったんだと思います。
選んだのは、映画制作を学べる専門学校でした。
映画は、お笑いと同じくらい当時から好きでしたし、映画の知識については、人より少し詳しかったと思います。
「いい映画ない?」と聞かれると、そのときは驚くほど流暢に喋れていました。
はい、ほとんどどもりません。
この頃はっきり実感したのは、自信のあることについては、どもらずに話せるということです。
逆に、わからないこと、自信のないことになると、声は小さくなり、引け腰で喋る。
そうすると、やっぱりどもります。
堂々と胸を張って、大きな声で話せる話題。
好きなこと、得意なこと。
そういう話題なら、吃音は出にくい。
今思えば、好きなことや得意なことを伸ばしてきたのは、僕にとっては結果的に吃音改善の役に立っていたのかもしれません。
あくまで、僕の場合ですが。
映画制作の学校では、裏方の制作を学んでいました。
ただ、授業の一環で、演者、つまり俳優のようなことをやらされることがあります。
そのときに回ってきた役が、なんと吃音の役でした。
「これは演技じゃなく、地でいけるんじゃないか」
そう思って、自分からその役に名乗り出ました。
ところが、やってみたらひどい。
本当にどもっているのと、演技としてどもるのは、まったく別物でした。
たぶん、演技じゃないことは、周りのみんなも気づいていたと思います。
顔から火が出るほど、恥ずかしかったです。
それでも、そのことでいじられたり、からかわれたりすることはありませんでした。
みんな、ちゃんと大人でした。

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